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江戸時代からの下町として発展してきた墨田区には、数多くの文化や産業が集積しました。大相撲が行われる国技館に近いことから、昔から多くの相撲部屋があります。 また東京の夏の風物詩隅田川花火大会は、この墨田区エリアで江戸中期に始まった両国川開き花火大会が継承されたものです。 そして2012年5月に東京スカイツリーが開業し、東京の一大観光拠点の役割も果たすようになりました。 墨田区では長年続く文化や産業に加えて、このスカイツリー開業がもたらす区内商業の活性化が期待されています。 墨田区には伝統文化の街以外に、ものづくりの街の一面もあります。製造品出荷額が23区中3位という数字からもわかるように、製造業が活発に行われてきました。 明治時代の主な工業製品は瓦や髪結具、ろうそくでしたが、やがて河川に囲まれた立地を活かし工業化が進み、 紡績、精密工業、石鹸 製靴の生産が行われるようになりました。現在は、金属製品、印刷及び関連業、繊維工業、皮革とその製品の製造が主流となっています。 長い歴史の中で主力商品が移り変わってきた製造業は小規模な零細事業者が多く、家族全員で事業を支えてきました。 この経営形態は今も続いています。主婦の就業率が3位という数字がそれを表していると言えます。 少子高齢化時代に突入した日本社会において、墨田区の家族経営主体の製造業も衰退期に入っています。 既存の製品から新しく付加価値の高い製品の開発、製造を行うのと同時にすみだの知名度を高めるブランド戦略の成功が今後の墨田区の課題です。 あたらしくある。なつかしくあるをキャッチフレーズに掲げ、江戸時代から継承された地域の文化を次世代へ届けながら、 優れた技術力をベースに墨田区ならではの独自性を打ち出した暮らしを豊かにする製品を生み出していきます。 新しく開発された商品は、商品部門と飲食店部門の2つの部門に分かれてそれぞれ審査を受けて、基準を満たせばすみだモダンの認証を受けることができます。 このようにしてすみだモダンの認証を受けたさまざまな商品が全国に広がることで、 墨田区の商品開発力や技術力の高さをアピールし、墨田区のイメージアップ効果を高めることを目的としています。 墨田区では、東京スカイツリー開業と同時期にこのブランド戦略を開始しました。 そしてこのブランド戦略を中心に街づくりや情報発信も行っています。 これらのブランド戦略に参加する地域の労働力は、15歳以上人口に占める就業者数の割合が23区内で1位となっており、その潜在力の高さには目を見張るものがあります。 区内の製造業の従業者数は4位で、これも23区内では上位にランクインしています。 そして製造業における家族従業者の割合が3位、工場の密度が2位、主婦の就業率が3位ということからもわかるように、 1事業所あたりの規模は小さくても、家族全員で一致団結して仕事に携わってきたことがわかります。このような職場環境は、東京の下町エリアによく見られる特徴です。 また墨田区では保育サービス充足率も2位となっており、待機児童が比較的少ない区で、 子育て世代の母親も働きやすい環境が整っています。墨田区は江戸時代以来の下町、庶民のまちとして、 地域や人とのつながりが深い環境の中で数多くの伝統文化や地場産業が育ってきました。家賃相場が手ごろなことや、 下町情緒あふれる環境や交通アクセスの良さで単身世帯、ファミリー世帯を問わず賃貸住宅の人気も安定しています。 今後は、これらの特性をより活かしながら、官民がそれぞれの役割分担のもとに一致団結して魅力あふれる街づくりに取り組まなければなりません。 自然の恵みを活かした産業振興と先を見据えた区政が、現在衰退しつつある商工業の活性化や加速する 少子高齢化に伴う人口減に歯止めをかけられるかが、板橋区の今後の課題となっています。 東京都の工業地域といえば、真っ先に思い浮かぶのが京浜工業地帯ですが、内陸部の板橋区でも、 その豊富な水源を利用し明治時代から工業が地場産業として発展してきました。 また関東大震災後に板橋の北部が工業甲種特別地域に指定されたことも追い風となり、 広い用地を求めて都心から次々と工場が移転してきたこともあって、板橋区の工業化が加速しました。 戦後までは軍部管轄の兵器工場、火薬倉庫があり、軍部が発注元となり多くの製品が作られました。 東京23区は、区によって住む人の年齢や1世帯あたりの人数、物価などに差があります。板橋区はどのような特徴を持っているのでしょうか。 板橋区に住む人を見ると、15~24歳の若者の割合が23区中2位となっています。 これは、区内にある大学の数が7位であることが影響していると考えられます。 板橋区内で働く人は、その区に住んでいる人の割合も23区中で5位と高いのですが、 夜間人口に占める企業・団体の役員の比率および管理的職業に従事する人の比率は20位と少なくなっています。 住民の多くは高待遇の役員よりも中間管理職以下の従業員レベルが多いことがわかります。 2012年度の1世帯あたりの所得水準が23区中17位352万円であることをみればそれがよくわかります。また生活保護受給者の数が2番目に多いことも特徴の1つです。 板橋区での商業を支える商店街は、かつて日本一と称された規模を持つ大山商店街や板橋緑宿9商店街が有名です。 この2つの商店街は1kmを超える規模で、このほかにも500mクラスの商店街が5カ所ほどあります。 自治体は区民が選んだ板橋のいっぴんを公募し、区内商業の活性化のサポートを行っています。 水源に恵まれて工業を中心に発展した板橋区は、近年全国的な人口の減少や高齢化の影響を受け、産業の衰退が懸念されています。 自治体は企業立地支援政策などを打ち出し、産業発展のサポートを行っています。 また区を5地域に分け、各地域の特性を活かした街づくりをすすめています。街づくりにおいて、自治体は区民との相互協力を重視しながら政策を進めています。 例えばパブリックコメントやモニター制度を導入し、区民の意見を取り入れながら区政に反映させる努力をしています。 そして災害発生時、板橋区は内陸部にあることから、首都直下地震の被害想定ではその被害が比較的少なく23区で最も安全率が高い区と評価されました。 これを受けて、板橋区ではさらに安全性を高めるべく、緊急時には私有地を開放して避難路の確保を行うといった住民を巻き込んだ災害対策を進めています。 大田区は環境の良い山の手の住宅地と商工業が盛んな海側エリア、そしてその2つの地域に挟まれた繁華街の3つに分けられます。 元々東京が35区制だった時代の大森区と蒲田区が合併して誕生した区で、当時のエリアの特徴が現在まで受け継がれています。 合併して新しくできた区は、その面積が23区中最大の区となりました。人口も3位で、数字上の規模の大きさだけでなく、その潜在性も未知数です。 山の手の大森エリアは、大正初期から高度経済成長時代に多くの人が都心から移り住んだことで高級住宅エリアのステイタスを勝ち取り、 現在も住みたいエリアの上位にランクインするブランドエリアとなりました。特に田園調布は、有名な財界人が作り上げたイギリス式の田園都市として有名です。 そして湾岸沿いの埋め立ては引き続き行われており、区内にある空港のおかげで、今後も工業をメインとして産業の発展が期待されています。 湾岸エリアに集まる工場は、住工一体型、家族経営というように小規模なものが多く、将来はこれらの中小規模工場の操業環境の維持が課題となっています。 大田区は、海側のエリアでは商工業が今後も発展することが見込まれていますが、 少子高齢化に伴う世帯人員の減少や世帯の小規模化への対策をたて、 住宅エリアに子育て世帯を呼び込むことが区の発展を左右するカギとなっています。 大田区の東側、東京湾沿いのエリアは、東京都心から川崎、横浜に至るまでの間にあります。 交通アクセスが良い利点を活かして、関東エリアの都市化を進める原動力となってきました。 大正時代初期頃から、この湾岸エリアが京浜工業地帯の一角として工場が増え始めました。旧蒲田地域では、高い加工技術を持った機械部品工業が発達しています。 そして昭和の始めに空港が開設され、数々の物流拠点が作られたことで流通が活発化しました。 戦後になり湾岸エリアの埋立事業が進んで平和島、昭和島、京浜島、城南島、東海島が大田区内に編入されました。 そしてこれらの島々に多くの工場や流通施設が移転していきます。空港は、拡張工事が進み24時間利用ができるようになり、2010年以降再び国際定期便が就航しています。 これまで工業を中心に発展してきた湾岸エリアは、今後、製造や流通の場だけでなく他業種への土地利用のニーズの高まりに応えていく転換期を迎えています。 大田区は、大正から昭和初期にかけて耕地整理が行われました。そして戦後復興期の大森駅や蒲田駅周辺での土地区画整理を経て、 現在の大田区の都市基盤が作られています。道路整備もこれらの都市開発と並行して行われてきました。 特に関東大震災後、工場進出が活発化し中小規模の工場が内陸部に拡大して、住工が混在する現在の大田区の原型が作られました。 そして、大正期から区の北東部でも住宅開発が進み、現在の住宅エリアが形成されていきました。 戦後間もない1950年頃からは、大田区の人口が増加し木造賃貸住宅が蒲田周辺に多数建設されています。 大田区の住宅エリアは、大きく分けると北東部の調布地区とそれより南側にある蒲田地区の2つになります。 学歴・年収・職業は、調布地区の方が高いのですが、事業所や工場の数、商業などの産業の集中は蒲田エリアの方が高くなっています。 小売業販売額も蒲田エリアの方が高くなっており、国際線が発着するようになった羽田空港へのアクセスの良さを活かして、この地域の拡大、発展が見込まれています。 蒲田地区とは対照的に山手の大森地区では、住宅地そのものの知名度は高いのにも関わらず、有名な商店街もなく独身女性が好んで住むようなブランド力もありません。 大田区全体では、人口が増えてはいるものの、高級住宅が建ち並ぶ地域では高齢化が進んでいます。 現在の大田区は、エリアによって人口が増加しているところもあれば減少したところもあります。 工場が移転した跡地に大規模マンションが建設されたエリアでは人口増加が見られましたが、JR西側、京浜急行線東側の地域などでは人口が減少しています。 住む人が少なくなった地域は、敷地面積が狭い住宅が密集しており居住環境改善が今後の人口増への課題となっています。 また人口は増えたのにも関わらず、その大半が単身世帯で子どもの数が増えない地域もあります。 豊島区は23区の西北部にあり千代田区、中央区、港区、新宿区と並んで副都心的な役割を果たしています。 現在も、東京の大都市にふさわしく埼玉方面の玄関口となる池袋には超高層ビル、また2020年には旧区役所跡地に開業予定の大規模商業施設の建設が進んでいます。 2010年度の国勢調査では人口密度が日本一となっています。特に結婚適齢期の独身男性が多く住んでおり、 池袋の街が夜遅くまで人でにぎわっている様子がテレビでよく映し出されています。 誰もがその繁栄ぶりを認める豊島区が、なぜ消滅可能性都市になってしまったのか、 そして自治体による汚名返上の対策が、今後の豊島区をどのように変えていくかが注目されています。 このデータから豊島区は2010年時点で、23区内で3番目に20歳未満の女子の割合が低かったために、 将来子どもの数が増えにくい可能性があることや、区内への人口流入が減少し転出超過となることが予測されました。 またこの時期は、一時的に人口が減少しており、外国人が増えて治安が不安視されていたことも区のマイナスイメージに拍車をかけることになりました。 そのため、2040年には消滅してしまう地域としてリストアップされてしまったのです。 もう少し詳しく見ると、豊島区は20代の割合は23区でトップですが、30代に入ると男性5位、女性11位となります。 30~44歳の結婚適齢期の性比は23区最高、つまり男性の割合が多く女性が少ない街となっています。 独身世帯が多いことを示すデータは、一世帯あたり人員は18位であること、 1住宅あたり延べ面積、1住宅あたり畳数の2つとも21位であることから予測が可能です。 そして持ち家世帯率は21位となっており、豊島区の大半の世帯が賃貸に住んでいることは明らかです。 2013年度の合計特殊出生率をみると、豊島区は23区で18位の0.99となっています。全国平均の1.43と比較すればかなり低い数字です。 豊島区が子育て世代の女性にとって住みたい産みたい場所ではないことがわかります。 これは、豊島区内が木賃ベルト地帯と称される、木造賃貸住宅が多い地域の中にあり、家賃が安い住宅が多いことも要因の1つです。 独身女性の多くが目黒区や港区といった家賃が多少高くても充実したアーバンライフが実現できるエリアへ好んで移り住み、 その結果、豊島区は住環境整備が進まないまま今日に至ってしまいました。現在は、この家賃の安さが外国人居住者の増加につながっています。 豊島区の1日の人の動きですが、区内の事業所に勤める人で他府県から通勤している人の割合は7位、 都内他地域からは8位となっています。区内で就業している割合は16位、事業所数は16位、従業者数は9位となっています。23区の中で、働きに来る場とは言えない数字です。 これに対して池袋周辺に有名大学が多いこともあり、他府県から来る通学者の割合は、 千代田区、渋谷区に次いで3位です。どちらかと言えば学びに来る場かもしれません。 豊島区が上位を獲得したものを紹介しますと、3位飲食業・宿泊業の全事業所に占める割合、5位小売業の年間販売額、3位大型店舗の年間販売額、2位売り場面積です。 5位にランクインした池袋駅の年間乗車人員でわかるように、この駅周辺に建ち並ぶ大型デパートや店舗がこの数字をたたき出しています。 自治体は消滅はないという見解を示していますが、2014年に豊島区持続発展都市推進本部を発足させて、 要因分析や今後の人口減少社会への対策を検討し始めています。 現状を調査した結果区外に引っ越す子育て世帯が多い事実が明らかになりました。 妊娠を届け出てから出産を経て、子どもが3歳になるまで区内で子育てをする世帯は全体の69.2%で、23区内で最低の割合であることがわかったのです。 自治体ではこの現実をふまえ、子育て世帯の定着度を高めるために単なる少子化対策ではなく、 女性施策に焦点をあてて、子育て世代だけでなく高齢者も住みよい街へと転換を図ろうとしています。 このような自治体の努力は、少しずつ豊島区のイメージアップにつながっています。 某住宅情報サイトの2014年版みんなが選んだ住みたい街ランキング 関東版 20代~40代編では、 池袋が中目黒や自由が丘を上回る総合3位、シングル層では2位、ファミリー層5位にランクインしました。 もともと豊島区では独身男性が多く、この層が結婚してこの地にそのまま住み続けてくれれば地域に子どもも増え、 街も子育てに適した街としてイメージチェンジが実現できるかもしれません。 今後少子高齢化がすすむ日本社会においては、人や少ない資源を集積させて効率的に経済活動を行うことが国際競争力を高める上で不可欠だと考えられています。 台東区は、23区の中でも面積が最小ながら人が多く集まり、観光地もあり、商工業を営む店や会社が多く活気にあふれています。 江戸時代より発展してきた東京の下町として、早くからヒト・モノ・カネが集まりやすかった台東区は、 明治時代以降現在に至るまでの間にその全体像をさほど変えることなく発展を続けて現在に至っています。 経済活動が日々活発に行われ、住民の生活に必要なものが徒歩で全て調達できる便利な 台東区はコンパクト・シティのモデルとして今後も発展していく可能性を秘めています。 外国からの観光客でにぎわう浅草がある台東区は、観光地以外にもさまざまな特徴を持ったエリアです。 例えば1960年の台東区の人口密度はあたり32,000人/k㎡でした。 これは、2位の荒川区の約28,000人/k㎡を大きく上回る密度の高さです。時代をさかのぼる1935年では、46,000人/k㎡でした。 近年その人口密度は下がり、2010年には23区中8位となっています。昼間の人口密度も8位ですが、 区内従業者の密度は6位、事業所密度は3位、卸売店密度2位、小売店密度1位、商店街密度1位、工場密度も1位、飲食店密度4位となっています。 1位にランクインしたものには、宿泊施設の密度、銭湯の密度、パチンコホールの密度などがあり、 これらのデータから、台東区には多種多様な建物、店が密集していること、区内に住む人が区内で働く割合が高いことがわかります。 そして貴金属、宝石製品製造業の工場数、皮革関連製品製造業工場数が1位となっています。これらの産業は台東区の地場産業として長い歴史を持つ業種です。 産業が発展した背景は、お寺が多かった台東区で仏具に使われる飾り細工や、吉原、浅草、柳橋からの装飾品の注文を受けた職人が数多くいたことが考えられます。 また江戸時代からの伝統工芸には、東京都が指定した41品目のうち27品目、はさみ、刃物、指物、桐タンス、仏壇、べっ甲、提灯、すだれなどが区内で製造されています。 これらの台東区の地場産業は、従業者9人以下の小規模事業所が区内の事業所の8割を占めています。住まいと製造が一緒になって行われる家族経営によって支えられてきました。 そのため開業50年以上の事業所の割合も高くなっています。 家族によって代々支えられてきた製造・卸・小売業は、上野のアメ横や浅草の仲見世、 谷中銀座、御徒町のジュエリータウンのような全国的にも有名な商店街を生み出しています。 これらの商店街は地元の人たちだけでなく、他府県や海外からの旅行客が集まる観光地に成長しました。 東京合羽橋商店街は、明治末期や大正初期は古道具を扱う店の集まりでしたが、戦後は飲食店器具や菓子道具を販売する商店街へと移り変わりました。 170店舗が集まる800mあまりの商店街は、利用客の中でも国内からの観光客が65%、外国人観光客が25%を占める専門店街へと発展しています。 その他の商店街では、老舗店舗が商売を通じて台東区の古き良き時代の生活文化のアピールも行い、独自性を打ち出して集客増への努力が続いています。 また、戦後直後に家が無かった人々のために設けられた簡易宿泊施設があったエリアは、現在も日雇い労働者が多く住んではいるものの、 その独特の雰囲気や衣食住の料金の安さが、お金をあまり持っていない海外からの若者の旅行者の増加につながり活気づいています。 このように古くからある商店街やドヤ街などが消えることなく、その姿を変えながら今もこの地に根付いているのが台東区の特徴です。 高齢化が進んでいるのに人口が増えて地域が衰退していない理由は、 台東区に生活するために必要な全てのものが密集しており高齢者から子育て世代の人に至るまで、 生活に必要な全ての用事を徒歩で足せる暮らしやすさがあるためです。 葛飾区が東京のどのあたりにあるのかわからない人でも、葛飾が下町を代表するエリアで人情あふれる町、 一世帯あたりの家族の人数が多く、昔ながらの近所づきあいの深さがある場所だと知っている人は多いのではないでしょうか。 1968年からテレビドラマとしてスタートし、後に映画のシリーズとしてギネスブックにも認定された男はつらいよは、東京都葛飾区柴又を舞台とした物語です。 この映画は1995年に公開された第49作目で幕を閉じましたが、この映画で葛飾区の地名や町のイメージが全国に広まりました。 葛飾区は江戸時代以降、幕府直轄の農村地として灌漑用水路が多く開削され整備が進んだおかげで、農耕地も増えて村が増え、大都市江戸の消費を支えました。 将軍家の鷹狩りの休息所として利用されるようにもなり、街道には人や物資が行き交うようになりました。 伝統工芸が生まれ商業が盛んに行われ、明治以降は水路を輸送手段や用水として利用し工業も発達しました。 かつて産業が発達した葛飾区は、現在その郊外において住宅地として開発が進む区として一戸建てを夢見る人たちの注目を集める区となりました。 一戸建て持ち家比率が36.2%と23区内1位である葛飾区は、今までの人情の町から家が持てる町へ変わりました。 葛飾区は江戸時代以降、幕府直轄の農村地として整備が進み村が増えました。 江戸川区、墨田区と共に東京の下町として商業の町として多くの人が集まり発展してきました。 その中から、江戸刷毛、江戸和竿、たわし、指物、漆器、羽子板、東京三味線、江戸刺繡などたくさんの伝統工芸が誕生しています。 また立地条件の良さを活かして工業地帯としても発展を遂げました。 太平洋戦争直後はおもちゃの製造が戦後の復興に大きく貢献しました。 現在、これらの商業と工業は機械化や合理化が進んだことや、大企業の区外や海外への移転などが進み、 その規模は縮小しましたが、工場の数やその希少性などにおいては、国内有数の工業集積地域であることに、変わりはありません。 葛飾区にある工場では、工場の経営者の約7割、従業員の約半数が同区内に住んでいるというデータがあります。 江戸時代から続いた長い歴史の中で出来上がった住と工が一体となった形で工業が発展してきたことがわかります。 都内の他の区では、昼間、仕事をしにやって来て、夜は郊外の別の区に帰るというライフスタイルを送る人も多いのですが、 葛飾区では自宅就業者の割合が23区でトップ、区内就業者の割合も3位で上位にランクインしています。 家族従業者の割合も5位と高くなっており、住まいの近くで家族と一緒に働くのが昔から続いた葛飾区でよく見られる光景だったということがわかります。 葛飾区には100㎡以下の家が62.5%を占めており23区内2位の比率の高さとなっています。 駅から10分も歩けば、3階建3000万円台の一戸建て物件が見つかります。 注意しなければならないのは、エリアによっては土地が住宅専用ではなく準工業地帯に指定されていることもあることです。 将来、近隣に大きな建物が建つ可能性も否定できないので物件を購入する時は、チェックは入念にしてください。 またすでに候補地周辺に工場があることも多く、音や人、車の往来などについても、曜日や時間を変えて何回も確認しておく必要があります。 現在、一戸建て購入エリアとして有望な場所の1つに、京成立石、青砥周辺があげられます。 葛飾区役所がある場所ですが、京成押上線は都営浅草線との乗り入れをしているので、日本橋、新橋といった都心へ直結できるアクセスのよさがあります。 また都営浅草線も京浜急行本選と乗り入れを行っており、羽田、神奈川、成田方面へも移動が便利です。
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